大学受験を控えた高校三年生の中村花音は、机の前で頭を抱えていた。世界史の年号が全く覚えられない。明日は模擬試験なのに、1789年のフランス革命すら頭から抜け落ちてしまう。
「もう無理…」
諦めかけた時、祖父の部屋から明かりが漏れているのに気づいた。夜中の二時だというのに、なぜ起きているのだろう。
そっと扉を開けると、祖父の武雄が古い写真を眺めていた。
「おじいちゃん、まだ起きてるの？」
「花音か。君も勉強で大変そうだな」
武雄は優しく微笑んだ。八十五歳になる祖父は、元大学教授で記憶力が抜群だった。今でも昔の出来事を驚くほど詳細に覚えている。
「おじいちゃん、どうしてそんなに物事を覚えていられるの？」
花音は隣に座った。
「それはな、記憶の宮殿を持っているからだよ」
「記憶の宮殿？」
武雄は写真を置いて、花音の方を向いた。
「古代ギリシャの詩人シモニデスが発見した記憶術だ。場所と結びつけて覚えるんだよ」
「よくわからない…」
「例えば、君が覚えたがっているフランス革命の年号、1789年。これをどこで覚える？」
「机の前で暗記してる」
「それじゃあダメだ。場所に意味がない」
武雄は立ち上がった。
「ついておいで」
祖父について家の中を歩き回った。
「まず玄関だ。ここで1789年を覚えよう。玄関のドアは『いちなんぱく』と読める。『1789（いちななはちきゅう）』のごろ合わせだ」
花音は玄関のドアを見つめた。確かに「1789」と関連付けられそうだった。
「次は廊下。ここではマリー・アントワネットを覚えよう。廊下を歩きながら『パンがなければケーキを食べればいいじゃない』と呟いてみなさい」
花音は少し恥ずかしそうに呟いた。
「今度はリビング。ここではロベスピエールの恐怖政治を覚える。テレビの前で『恐怖政治』と言いながら、怖い映画を見ている自分を想像するんだ」
「おもしろい…」
「キッチンではナポレオンだ。料理をしながら『余の辞書に不可能という文字はない』と言っている自分を想像する」
家中を回りながら、武雄は花音に記憶の宮殿の作り方を教えた。
「人間の脳は、場所の記憶が得意なんだ。古代から人類は、危険な場所や食料のある場所を覚えて生き延びてきた。だから空間記憶は非常に強固なんだよ」
「すごい…」
「この方法には科学的根拠がある。海馬という脳の部位が、場所の記憶と物事の記憶を同時に処理するんだ」
武雄は脳の図を描いて説明した。
「海馬には場所細胞というものがある。特定の場所にいる時に活動する神経細胞だ。この場所細胞と、覚えたい情報を結びつけることで、記憶が強化される」
「だから古代の演説家たちは、長いスピーチを暗記するのに建物を使ったんだ。アテネのアゴラを歩きながら、各場所に演説の内容を配置していった」
花音は目を輝かせた。
「でも、なぜ今まで誰も教えてくれなかったの？」
「現代の教育は効率を重視しすぎて、記憶術のような古典的な方法を軽視する傾向がある。でも実は、最先端の脳科学が古代の知恵の正しさを証明しているんだよ」
武雄は本棚から一冊の本を取り出した。
「記憶術には他にも方法がある。『連想法』『語呂合わせ』『イメージ化』『ストーリー法』など」
「例えば、化学の周期表。水素、ヘリウム、リチウム、ベリリウム…これを『すいへーりーべー』と歌で覚える人が多いが、もっと効果的な方法がある」
「水素は『水の素』だから、蛇口から水が出ている光景を思い浮かべる。ヘリウムは風船。リチウムは電池。このように、それぞれの元素を具体的なイメージと結びつけるんだ」
花音は興奮していた。
「数学の公式も同じだ。二次方程式の解の公式を機械的に暗記するより、なぜその式になるのかをストーリーとして理解する」
「『なぜ』を理解すると、記憶は格段に定着しやすくなる。これを『意味記憶』と呼ぶ」
「おじいちゃん、もっと教えて」
「記憶には『短期記憶』と『長期記憶』がある。短期記憶は約20秒しか持続しない。でも、繰り返し思い出すことで長期記憶に移行する」
「この時重要なのが『間隔反復』だ。覚えた翌日、3日後、1週間後、1ヶ月後に復習する。この間隔で復習すると、記憶の定着率が飛躍的に向上する」
武雄は手帳を見せた。そこには復習スケジュールがびっしりと書かれていた。
「私は85歳だが、今でも新しいことを学び続けている。記憶術を使えば、年齢に関係なく学習できるんだよ」
「実は、記憶力は訓練で向上する。世界記憶力選手権の優勝者たちも、生まれつき記憶力が良かったわけではない。記憶術を駆使して、常人では考えられないほどの記憶力を身につけたんだ」
花音は深く感動していた。
「記憶術のもう一つの利点は、創造性を高めることだ。記憶したことを組み合わせることで、新しいアイデアが生まれる」
「アインシュタインは『創造性とは、記憶したことを新しく組み合わせることだ』と言った。豊富な記憶があってこそ、創造的思考が可能になる」
朝が近づいていた。
「花音、明日の模試でこの方法を試してみなさい」
「ありがとう、おじいちゃん」
花音は自分の部屋に戻り、さっそく記憶の宮殿を作り始めた。自分の部屋を起点に、歴史の出来事を配置していく。
ベッドでナポレオンの誕生、机でワーテルローの戦い、本棚でナポレオン法典…
翌日の模試で、花音は驚くほど多くの問題を解くことができた。記憶の宮殿を歩きながら、必要な情報を次々と思い出せたのだ。
それから花音は、あらゆる科目で記憶術を活用するようになった。英単語、化学式、数学の公式、すべてが記憶の宮殿に整然と配置されていく。
成績は急上昇し、第一志望の大学に合格できた。
大学で心理学を専攻した花音は、記憶のメカニズムをより深く学んだ。そして将来、教師になって多くの生徒に記憶術を教えることを決意した。
祖父から受け継いだ「記憶の宮殿」が、花音の人生を変えたのだった。
