田村麻衣は毎朝同じ時間に鏡の前に立つ。化粧をする前の五分間、素顔の自分と向き合う時間だった。
二十八歳、独身、広告代理店で働く平凡なOL。特別美人でもなく、特別醜くもない。ごく普通の女性だった。
「今日も一日、頑張ろう」
鏡に向かって小さく呟く。これが彼女の日課だった。
しかし、今朝は何かが違った。
鏡の中の自分が、微笑んでいたのだ。
麻衣は首を振った。見間違いに違いない。自分はまだ微笑んでいないのに、鏡の中の自分だけが先に笑うなんてありえない。
もう一度鏡を見た。今度は鏡の中の自分も真顔に戻っていた。
「疲れてるのかな」
最近、残業続きで睡眠不足だった。幻覚を見ても不思議ではない。
会社では、いつもの忙しい一日が始まった。クライアントからの無理難題、上司からの叱責、同僚との微妙な人間関係。麻衣は疲れ果てて帰宅した。
洗面所で化粧を落とそうとして、また鏡を見た。
今度ははっきりと見えた。鏡の中の自分が、こちらを見つめていた。麻衣が手を動かしていないのに、鏡の中の自分は手を振っていた。
「こんばんは」
鏡の中の自分が口を動かした。声は聞こえないが、唇の動きでそう言っているのがわかった。
麻衣は声にならない悲鳴を上げて、鏡から離れた。
数分後、恐る恐る鏡に近づいた。鏡の中の自分は普通に戻っていた。麻衣が手を上げれば、鏡の中の自分も手を上げる。当たり前の光景だった。
翌朝、麻衣は意を決して鏡の前に立った。
「昨日のは幻覚じゃなかったでしょ?」
小声で問いかけた。
鏡の中の自分が頷いた。
「あなたは誰?」
鏡の中の自分が口を動かした。「もう一人のあなたよ」
麻衣の心臓が早鐘を打った。
「なぜ話しかけてきたの?」
「あなたを助けたいから」
鏡の中の自分の表情が、とても優しかった。
「助ける?」
「あなた、本当はもっと輝ける人なのに、自分で自分を抑えつけてる」
麻衣は言葉を失った。
「今日、プレゼンがあるでしょ?」
確かにあった。大きな案件のプレゼンテーション。麻衣は緊張で胃が痛くなるほど不安だった。
「私の通りにやってみて。きっとうまくいく」
その日、麻衣は鏡の中の自分のアドバイス通りに行動した。いつもより少し背筋を伸ばし、いつもより少し大きな声で話し、いつもより少し自信を持って歩いた。
プレゼンテーションは大成功だった。クライアントから絶賛され、上司からも褒められた。
帰宅後、鏡の前に立った。
「ありがとう」
「どうだった?」
「すごくうまくいった。でも、あれは本当に私だったの?」
「もちろんよ。私はあなたの可能性を見せただけ。実際に行動したのはあなた自身」
麻衣は涙が出そうになった。
「でも、なぜ今になって現れたの?」
鏡の中の自分が悲しそうな表情を浮かべた。
「あなたが自分を諦めかけていたから。このまま放っておいたら、本当に取り返しがつかなくなるところだった」
「取り返しがつかない?」
「人は、自分の可能性を信じなくなった瞬間から、本当に平凡になってしまうの」
麻衣は胸が締め付けられる思いだった。
「これからも、あなたは現れてくれるの?」
鏡の中の自分が首を振った。
「もう必要ないわ。あなたは思い出したから」
「何を?」
「自分が輝けるということを」
翌朝、麻衣は鏡の前に立った。鏡の中には、いつもの自分がいた。でも、その表情は昨日までとは違っていた。
自信に満ちた、美しい笑顔だった。
「今日も一日、頑張ろう」
いつもの呟きが、今日は力強く響いた。
鏡の中の自分も、同じように微笑んでいた。今度は、麻衣と同じタイミングで。
その日から、麻衣の人生は少しずつ変わり始めた。仕事でも積極的に発言するようになり、同僚との関係も良くなった。何より、毎朝鏡を見るのが楽しみになった。
鏡の向こう側のもう一人の自分は、もう現れることはなかった。でも麻衣は知っていた。あの自分は消えたのではなく、今の自分と一つになったのだということを。
鏡は今も、麻衣の可能性を映し続けている。