朝の六時、アラームが鳴る前に目が覚めた。体調は最高だった。
洗面所の鏡に映る自分の顔を見て、佐藤健一は満足げに頷いた。三十二歳、中肉中背、特に取り柄のない平凡なサラリーマンだが、今日は違う。今日は特別な日になる予感がしていた。
シャワーを浴びながら、鼻歌を歌った。普段は音痴で人前では絶対に歌わない自分が、なぜか今朝は美しいメロディーを奏でている。不思議だった。
朝食のトーストがいつもより美味しく感じられた。コーヒーの香りが格別だった。新聞を読むと、株価が上昇している記事が目に飛び込んできた。昨日買った株がすでに二十パーセント上がっていた。
「やったな」
一人でガッツポーズを取った。
通勤電車では奇跡的に座席に座ることができた。いつもなら満員電車で押し潰されているのに、今日はゆったりと新聞を読めた。隣に座った美しい女性が、偶然にも同じ本を読んでいることに気づいた。
「面白い本ですね」
勇気を出して声をかけると、彼女は微笑んで応じた。
「本当に。この著者の作品は初めて読むのですが、引き込まれます」
会話が弾んだ。彼女の名前は山田美咲。同じ駅で降りることがわかり、連絡先を交換することができた。
「今度、お茶でもいかがですか?」
「ぜひ」
美咲の笑顔が眩しかった。
会社に着くと、上司が嬉しそうに近づいてきた。
「佐藤君、君の企画が通ったよ。役員会で満場一致だった」
三ヶ月前に提出したプロジェクト企画書が、ついに承認されたのだ。昇進も確実だった。
同僚たちが祝福の言葉をかけてくれた。普段は冷たい先輩も、今日は優しく肩を叩いてくれた。
昼休み、久しぶりに母親に電話をかけた。
「健一?どうしたの、珍しいじゃない」
「別に、元気かなと思って」
「ありがとう。お母さん、嬉しいわ」
母の声が弾んでいた。実家に帰ろうと思った。
午後の仕事も順調に進んだ。いつもなら苦手なプレゼンテーションも、今日はスムーズにこなせた。クライアントからも高い評価をもらった。
仕事を終えて外に出ると、夕日が美しく空を染めていた。街の雑踏も、今日は音楽のように聞こえた。
帰り道、コンビニで宝くじを買った。なんとなく、今日なら当たりそうな気がした。
アパートに戻ると、大家さんが待っていた。
「佐藤さん、家賃の件で相談が」
家賃の値上げかと身構えたが、意外な言葉が返ってきた。
「実は、来月から家賃を下げることにしました。あなたのような良い住人には、長く住んでもらいたいので」
信じられなかった。
夜、美咲からメールが届いた。
「今日はありがとうございました。とても楽しかったです。今度の休日、本当にお茶しませんか?」
心臓が高鳴った。
ベッドに横になりながら、今日一日を振り返った。まさに完璧な一日だった。こんなことが現実にあるのだろうか。
ふと、枕元に置かれた小さなメモに気づいた。自分の字ではなかった。
「お疲れ様でした。今日は実験の最終日です。明日、すべて元に戻ります。ありがとうございました」
メモの下には、小さく署名があった。
「時間管理局 第七班」
健一の手が震えた。すべてが実験だったのか。株の上昇も、美咲との出会いも、昇進も、母との電話も。
「なぜだ…」
声が震えていた。
メモの裏側を見ると、さらに文字があった。
「あなたの人生には、実は毎日こうした小さな奇跡が起こっています。ただ、普段は気づかないだけです。明日からは、自分の力でその奇跡を見つけてください」
健一は涙が止まらなかった。今日の幸せが偽物だったからではない。明日から、自分の力でこの幸せを掴まなければならないという責任感と、同時に溢れ出る希望のためだった。
窓の外で、新しい朝が始まろうとしていた。今度は、本当の自分の人生が始まる朝だった。
健一は立ち上がり、明日への第一歩を踏み出した。